小野市の刃物
江戸時代、全国の各藩には藩のお抱え刀工「藩工」がおりました。
藩主の一族や有力者は、こうした刀工に直接製作を命じたり、
とくに著名な刀匠には「注文打ち」と称する個別の製作依頼をしたりしていました。
かつて「播磨国」(播州)とよばれた兵庫県南西部の中でも、
小野市は、一柳家を藩主とした「小野藩」の城下町で、東隣の三木市とともに金物のまちとして栄えた地域。
日本刀の原材料となる一級品の砂鉄を鳥取砂丘から採取して使っていたこと、
三木市の丹生山付近でも鉄が採取されたこと、薪炭用の木材等が豊富にあったこと、
さらに刀工が大勢いたことなどさまざまな条件が重なり、金物の生産向上につながりました。
古文書によれば、延享年間に剃刀が製造されたのをはじめとして、
文化年間に握鋏、包丁の製造が開始されたと伝えられています。
家内的工業として小野周辺に農家の副業として広がり、
その後も生産技術の改良や機械化がすすみ、明治時代には品種が多様化。
明治後期にはさや付けをしたナイフが開発され、小刀を改良した現在の包丁が考案されました。
なかでも江戸末期に活躍した旧一柳藩の抱え刀鍛冶、藤原伊助は、剃刀の製造技術を応用して鎌を製造。
「薄く研ぎやすい」「切れ味は最高で、刃こぼれも少なく錆びにくい」といわれ、
その鋭利さが喜ばれ「カミソリ鎌」と呼ばれたほど。
小野で生まれた鎌は今や「播州鎌」といわれ、全国の生産量の約8割を占め、
兵庫県の伝統的工芸品に指定されています。
かつて鎌鍛冶で発展した地域にあり、いまも鍛冶職人たちが伝統的な技術と品質を守り続けています。